私は何も「積み上げない」~積み上げるにこだわると「人生が詰む」理由~vol700

脱サラ農業・起業
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脱サラ元公務員、現在はブルーベリー&パーマカルチャーの農園をやっています 神崎辰哉(かんざきたつや(@ttykanz) )です。

農園の名前は長野県安曇野市、北アルプスの山麓で「ブルーベリーの森あづみの」といいます。

有機JAS認証を取得した「オーガニックブルーベリー」を栽培しています。

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みなさんは、経験や知識、人生などなどについて、なんとなく「積み上げていくもの」というイメージはありませんか?

私は、そう思っていました。

何かを勉強したり、練習したり、経験を積んで(あ、すでに積んでと言っていましました)・・・

そうして「何者か」になろうとしていました。

しかし、積み上げていくこと、正確には「積み上げていくことにこだわること」は、実は弊害が大きく、私はあるきっかけでやめることにしました。

コツコツとブログ記事を「積み上げて」、今回で700記事に到達したタイミングで書く内容としてはどうかと思いますが(笑)。

大切なことだと考えていますので、あえて書かせていただきました。

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積み上げることが好きな日本人

日本人は、とにかく「積み上げる」ことが好きな民族ではないかと思います。

スポーツの世界を例にとってみても、「走り込み」「投げ込み」といった言葉もあります。

成功する前の時代の「下積み」といったものや、「経験を積む」という言葉にも表れています。

「積む」こと自体が悪いわけではないのですが、「積む」ことはあくまで目的のための手段の一つにすぎません。

日本プロ野球やメジャーリーグにも挑戦した、桑田真澄投手も以前、

「走り込み、投げ込みで何か貯まりましたか?溜まったのは(筋肉への)乳酸だけではないでしょうか。」という主旨の発言をしていました。

コツコツとした練習を否定しているのではなく、それ自体が目的化していることを指摘しているのではないかと思います。

場合によっては、方法論として合理性がない場合もあります。

積み上げることの弊害

問題となるのは、手段であったはずの「積み上げる」ことがいつの間にか「目的」となってしまったり、積み上げているものが選択肢を制限してくることです。

努力の経験を「積み上げる」ことに固執してしまうと、今度は、「自分がこれまでやってきたことを否定したくない」といった心理が生まれます。

また、成功体験を「積み上げる」と、「今までこれでうまくいったんだから・・・」といった成功体験に固執する心理が生れます。

いずれの例も、転換が必要なタイミングになっても、変化の機会を失うことがあったり、合理的な判断ができなくなってきます。

特に、現在は変化のサイクルが短く、変化に対する柔軟性を失うことは避けたいと考えています。

これまでに固執すると、どんどん生きるのがしんどくなるからです。

積み上げていない自分には価値が無い?

積み上げることは、より経験値などが上がり、より有利になるはずなのに、何故、弊害も生まれてくるのででしょうか?

それは・・・・

積み上げていないと付加価値がない=積み上げていない素の自分には価値がない 

と錯覚してしまうからではないかと思います。

そもそも、ありのままの自分を否定していることがわかります。

「努力して、勉強して、何者かになりなさい」という家庭や学校の教育も影響しているのかもしれません。

経験して、努力して、どんどんラクになりつつ、それでも、いつでも手放せる・・・

そういった状態でいられるには、自分は何か積み上げている、条件付きでなくても、

ありのままで大丈夫だと思えるかどうかが大切だと思います。

若者は自分たちの後ろを歩いているわけではない

サラリーマンをやっていた頃、就職氷河期世代だったので、同世代はいつでも少ない環境でしたが、だんだんと後輩の若者が増えてきました。

指導担当のようなことをやっていたときに、当初は「自分の方が優れていなくては・・・」と無駄に焦っていました。

しかし、業務の変化が著しくなってきている時でもありましたし、

自分が何年やっていても、全ての能力が後輩より上回っているということは現実的にはあり得ません。

そうこうしているうちに、人事のエラー(?)で、チームが若い世代ばかりになってしまったことがありました。

経験の少ない人たちに頼り、最大限の力を発揮してもらわなければ、本当に仕事が回らなくなりました。

いい意味で、自分の方が前にいることは、早々にあきらめました。

それぞれの人を理解し、リスペクトし、自分が得意なことでサポートをしながら「協働」し、結果を出していくことが大切だと思うようになりました。

気を付けていても、長くやっていると、「積み上げて」きた経験や成功体験に縛られることがあるので、それがない、新人などのフラットな存在は貴重です。

人生や仕事といったものが、坂道のような道を順番に上っていくイメージで例えられることが多いですが・・・

私は、坂道のような一本道をみんな順番に歩いているというよりは、それぞれの違った、フラットの放射状のような道があり、各々が歩いているというイメージをもつようになりました。

若者や子どもたちは、決して自分の後ろを歩いているわけではないんです。

それがイメージできてから、自分が必要なこと、わからないことは、相手が、子どもでも若者でも、初心者でも、教えを乞うことに何の抵抗もなくなりました。

「道」が違うので、自分と比べたり、自分の方が優れていなくても全然OKだからです。

野球とサッカーの優劣を比べられないのと同じで、競技が違う。

自分の「道」は、誰にも否定されるものではないからです。

そうすると、バックグラウンドの違う人たちの知恵やリソースをわけてもらい、自分のリソースも広がっていきます。

まとめ

「積み上げること」はだんだんと、ラクになるけれども、ありのままの自分を認められていなければ、、今度はそこに縛られ、どんどん不自由になる。

そういった結論になりました。

農園をつくって、自分の商品やサービスをつくって、お客さんが増えて・・・とここ数年で様々な経験を積んできました。

それはとってもありがたく、尊いことです。

一方で、仮にたとえそれが無かったとしても自分は大切な存在だと、どこか自分で思っていることも大切だと思います。

いつでも手放しても、大丈夫。

そう思えることで、「積み上げる」ことやめられる・・・というよりは、固執し、縛られることが少なくなくなります。

さらに、思考が自由になり、いろいろなやり方、いろいろな人の人生のリソースを分けてもらえます。

執着しないことで、結果的に豊かになり、積み上げてきたものすら、守られるということかもしれません。

今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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