脱サラ元公務員、現在はブルーベリー&パーマカルチャーの農園をやっています 神崎辰哉(かんざきたつや(@ttykanz) )です。
農園の名前は長野県安曇野市、北アルプスの山麓で「ブルーベリーの森あづみの」といいます。
最近、ちょっとした発見がありました。
それは「知らないことが普通」だということを前提にしていると、
人生が非常にラクだということです。
『全てのこと知る』のは無理ゲーです
自分が知らない状態が不安。
バカにされるのではないか…
知らないことが恥ずかしい…
という気持ちになることはありませんか?
私はよくあります(笑)
しかし、それは「知らないことが無い」という不可能なことを目指していることと同じです。
完璧主義を目指しても、もともと完璧は不可能なのと一緒で、
無理なことを目指して、
下手すると、「そんなことも知らない自分」を責めるということをしてしまいます。
どんなに、その道の専門家でも、常に世の中は変化しており、
ちょっと時間が経過したり、場面がかわれば、わからないなんて普通のこと。
ベテランでも、
知識人でも、
年を重ねても、
やったことがないことは、基本わかりません。
知っているふりはできるかもしれませんが、
みんな知ってるのは、もともと「無理ゲー」なんです。
どちらかというと、世の中はわからないことの方が圧倒的に多い。
農作物の栽培もやればやるほど、わかってくることもありますが、
逆にさらにわからなくなることもあります。
だとすると、仮にそれをばかにする人がいれば、
ばかにする方が意味がわからないようにも思います。
「知るにアクセスできるか」が大切
いろいろな学びをすることは当然いいことだと思います。
しかし、人生も時間も有限なので、
自ずと限界があります。
全てを知ることはできないから、
知らなくてもOK、
知らないことは、はずかしくない。
と、いうかそれが普通。
というマインドでいられれば、
ほかの人の「知」を受け入れることも抵抗がありません。
他の人の「知」という、外部の「拡張メモリー」をお借りすることもできます。
そういった、拡張する「知」を作り出せる状態、人間関係づくりの方が、
自身の能力をがんばって高めること以上に大切ではないかと思うのです。
加えて、現在は、人類史上「知ること」に「アクセスしやすい」時代だとも言えます。
かつてないくらいインターネットやSNS、それらを使って間接、直接的にも、人にアクセスしやすい。
遠くの「知」にもつながりやすい時代とも言えます。
全てはそろっていても、唯一つ、障害となるものがあります。
それは自身のブロック。
「知らないと恥ずかしい」「ばかにされるのではないか」「軽んじられるのではないか」
そういった、自分自身の誤解ではないかと思います。
しかし、他者へのリスペクトを忘れなければ、
「知らない」というだけで、人を貶める人はいないのではないでしょうか。
気にしているのは、自分だけ。
そうであれば、 『「知らないことの方が多い前提」にすると人生が「イージーモード」になる』ように思えるのです。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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